八重山の国体教育
・1879年(明治12)琉球処分により、琉球王国は崩壊し、日本の近代国家に
併合された。
・明治政府は、八重山の西表の石炭資源、東アジアの国境の島としての
重要性から日本国家への併合を推進していった。
・天皇制国家への忠誠心を醸成するための国体教育、帝国臣民としての
最小限の産業技術、軍事技術習得のための皇民化教育を徹底した。
大正デモクラシーの波
・大正時代に入ると、ロシア革命や米騒動などの影響を受け、労働争議が
頻発し、沖縄にも社会主義研究会やアナーキストグループも誕生した。
・八重山では大濱用立をリーダーとする日本教育労働者組合八重山支部が
結成された。
昭和恐慌時代
・昭和に入り、世界恐慌の波は日本にも押し寄せ、金融恐慌、農業恐慌
を引き起こし、失業者の増大による労働争議、農村の疲弊による夜逃げ
人身売買などが相次ぎ、社会不安の中、治安維持法が制定され、民主化運動、
組合運動は徹底的に弾圧された。
・八重山の民主化運動や労働争議は、天皇制の廃止とか私有財産制の否定
といった共産主義体制への移行を目的にしたものではなく、あくまで生活権の
擁護、社会機構の民主化、労働者、農民の貧困からの解放が目的であって、
共産主義思想に基づく体制転覆などという大それた目的などなかった。
・しかし、特別高等警察いわゆる特高は治安維持法の下、左翼勢力を一掃
すべく、徹底的な弾圧を加え、厳しい取り調べや拷問により関係者は悉く
転向を余儀なくされた。
八重山義勇軍の設立
日本は天皇を首長とする軍国主義国家へ傾斜していく中、住民の思想統制、
国家主義思想への誘導を計るため、在郷軍人会で組織する「八重山義勇軍」を
設立し、国防意識の普及に努めた。
挫折と転向の意味
・近代八重山の社会運動は、大正デモクラシーの洗礼を受けた青年たちが、
旧慣(古い制度を残し、改革は控える制度)と窮乏する社会に目を向けた時
に始まったが、国家の弾圧で終焉した。
・戦時体制下、教員不足のため教壇に迎えられたが、彼らを民衆が「アカ」
「国賊」と指弾し乖離していき、共同体の中でも孤立していったとき、内面の
政治意識は崩壊し、戦争推進の国策や共同体の因習に転倒させられた。
そして、過去ある知識人、指導者として国策、戦意高揚を積極的に推進した。
・戦後、彼らにまつわる「戦後一貫して平和のために戦った」という虚妄を
拒否し、挫折、転向の問題として突き詰めなければならない。
今、私たちは彼らの翻弄された時代に似た岸辺に立たされている。
彼らの問題を今日的課題としてとらえたい。
ペーチン