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「近代八重山の歴史Ⅰ」~八重山の歴史と文化講座より

琉球処分と八重山
明治政府は、500年続いた琉球王国を解体し、沖縄県を設置、処分官松田道行は
軍隊・警察およそ600名を率いて、反対派の嘆願には一切耳を貸さず、処分を
断行した。宮古・八重山にも処分官が派遣され、強権的に処分を断行していったが
最後の在番、渡慶次親雲上(ペーチン)は帰沖の途上、海上に身を投じて自殺した。

宮古・八重山の分島問題
明治政府は近代化を急ぐため、欧米列強の世界進出に対抗して、中国大陸の豊富な
資源に目をつけ、清との日清修好条約の改定交渉を始めるが、その際、宮古・八重山を
割譲する提案を出し、1880年(明治13年)一旦は交渉は妥結した。
ところが、調印の段階になって、清国側の思惑、旧琉球王国の士族たちの根強い
抵抗、詩人林世功の抗議の自殺などで調印は棚上げとなり、そのまま交渉は
決裂した。

この分島問題は実現はしなかったものの、日清交渉の場で、最も熱心だったのは
日本だった。もし調印されていれば、清国での通商権と引き換えに宮古・八重山は
清国へ売り渡されていたであろう。この強権的な国家の論理は昔も今も何ら変わって
いないように思える。

ペーチン