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「近世八重山の歴史」八重山の歴史と文化講座より

琉球王国への併合
14世紀後半、沖縄本島は群雄割拠の時代で、北山、中山、南山の三山を統一した
中山王尚巴志により琉球王国が築かれた。これに伴い宮古、八重山も琉球王国への
入貢が始まり、王府へと吸収されていった。その後オヤケアカハチなどによる
抵抗はあったものの、宮古、八重山も琉球王府による中央集権体制に組み込まれて
いった。

琉球見聞記
15世紀後半、三名の朝鮮漂流民が与那国に漂着、彼等は手厚く保護され、島伝いに
沖縄本島に送られ、三か月後、薩摩、博多を経由して、朝鮮本国へ送還された。
彼等の体験記は「琉球見聞記」として残されている。
・住民の風貌は朝鮮人と似ている。
・人々はみな裸足で、履物をはいていない。
・主食は米、粟、黍などで、副食の羹は、本島の那覇では塩、醤油で味付けするが、
島々では、海水で肉、野菜を調理する。
・家畜は、牛、馬、鶏、犬、猫を飼っているが、牛は食べるが那覇以外の島々では
鶏は食べない。
・かたつむりを煮て食べる。
・酒は、島々では、水に浸した米を少女たちに噛ませて粥状にして発酵させて作る。
本島では米麹を使って、清酒、濁酒を作るが、非常に強い。
・泥棒はいない。道に落ちている物は拾わない。お互いに罵ったり、喧嘩したりしない。
・子供を大変可愛がるが、いくら泣いてもかまわないでほっておく。

島津の琉球侵攻
17世紀に入り、島津は琉球に侵攻、琉球王国の存在は認めたものの、実質的には
その支配権を確立した。薩摩への貢納負担は、王府による人頭税制度の見直しなど
農民への過重な税制により、人々の生活を圧迫し、農村は次第に疲弊していった。

人頭税
課税の状況は、男女、年齢別に15~20歳、21~40歳、41~45歳、46~50歳と細かく決め
られ上納物は、米、布、労働、その他特産物などであった。

八重山諸島は大小の島嶼から成る地域のため、小さな島々は耕作地が狭小のため
西表島や石垣島への通い耕作いわゆる通耕を余儀なくされ、強制移住や未開地での
マラリヤなど苦労が絶えなかった。

王府としても、税収を計るため、木綿の栽培法や木綿布調整法、塩、お茶、煙草、
甘藷の導入、泡盛の島産化など諸施策を行った。

明和の大津波
1771年(明和8年)宮古・八重山諸島を大津波が襲い、甚大な被害をもたらした。
30~45mの津波は各村々を襲い、八重山人口の三分の一、9313名の犠牲者を出した。
この時代は、日本内地でも大旱魃や水害、大火、自然災害など相次いで発生し、
政治腐敗とも相俟って未曽有の大飢饉となった。(天明の大飢饉)
この時期の異常気象による大飢饉は世界的なもので、フランスではこれがきっかけ
となって大革命がおきている。(フランス革命)

ロバート・バウン号事件~中国人労働者の暴動
1852年、米国船ロバート・バウン号は厦門港から中国人労働者(苦力)400名余を
乗せてカリフォルニアに向け出港した。航海中、イギリス人の船長や船員が
中国人労働者を裸にして、辮髪を切り落としたり、病人を海に突き落としたりの
暴行、虐待を働いたため、怒った中国人労働者たちは船長ら7人を殺害、船を奪い
進路を台湾へ変えさせた。その途上、船は石垣島崎枝近海で座礁した。

中国人達は石垣島に上陸し、衣服や食料が与えられ、病人の手当てがなされるなど
丁重に扱われた。しかし、通報を受けイギリス船2隻と武装兵が上陸し、銃殺或いは
捕縛などで生存者は172人となっていた。残された生存者は王府によって福州へ護送
された。

この事件の犠牲者128名については、その後、石垣市によって合祀慰霊のため
唐人墓が建立された。

琉球藩設置・廃藩置県
明治維新によって琉球王国はひとまず琉球藩として政府直轄領とし、改めて
琉球藩を廃して沖縄県を設置した。これがいわゆる琉球処分である。
これにより、宮古・八重山にも処分官が派遣され、厳しい要求に対する日本
帰属反対の運動も時代の波に飲み込まれていった。

ペーチン