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八重山の織物~芸大文化講座より

?木綿布
1611年に儀間真常により薩摩から沖縄本島へ移入されたが、
八重山での綿作りは、31年後、池城安師によってもたらされた。

木綿作りは複雑な工程で手間がかかる上、上布による貢納への
懸念から、王府は積極的には奨励しなかったと言われている。

木綿作りが盛んになるのは、明治時代に入ってからで、その頃から
綿の栽培や木綿作りの技術も導入され、木綿畑の義務付け、木綿布
による貢納も行われるようになった。

人頭税貢納により絣の技術は向上し、琉球絣は藍染の優雅な色と
沖縄独特の美しい文様、強烈な太陽にも色落ちしない丈夫さで
本土でも重宝されたと言われ、かの久留米絣や薩摩絣の源とも
言われている。

ミンサー帯は八重山を代表する織物であるが、綿糸を藍染して、
細く織った帯で、女性から男性へ贈った。絣柄の五つと四つの
柄は、「いつ(五)の世(四)までも幸せに」との女性の
祈りが込められている。

?芭蕉布
芭蕉布の原料となる糸芭蕉は、1300年~1400年代にかけて
南方貿易により伝来し、各地へ広まったと推測されている。
高温多湿の沖縄で好まれ、王府の高官、神女から庶民に
至るまで着用された。

八重山でも苧布共に、古くから織られ、広く利用された。
今でこそ、芭蕉布の着物はン十万円もするが、当時は普段着
として着られていた。

沖縄本島の芭蕉糸の紡ぎ方は機結びに対し、八重山は撚り積ぎ
なので、織面がなだらかなのが大きな特徴である。

一時は量産されていた芭蕉布は、時代と共に木綿織、絹織物に
代わられ、今は僅かに祭りの衣装用に細々と織られている。

?絹織物
沖縄への伝来は、尚真王の頃、久米島で宗味入道(坂本普基)が
養蚕から真綿の作り方を指導して始まったが、八重山への伝来は
1815年登野城村の石垣善全によって伝授されたが、上布や木綿布
などの貢納に支障が生ずる懸念から、王府により禁止された。
現在は開南地区で、養蚕から絹織物までの一貫工程を当銘さんが
細々と続けている。

?上布
上布とは、苧麻糸(ちょまいと)で織られた布のことで、布の密度
により、上布、中布、下布にランク付けされていた。最高ランクの
上布は、模様の美しさ、色鮮やかさ、肌にべとつかず風通しもよく、
太陽熱に強く、色あせしないので、上流階級の人々から珍重されて
きた。

この苧麻と交換に賄女にさせられたのが仲筋のヌベーマーであり
その悲しい話は民謡「仲筋ぬヌベーマー」に歌われている。

王府は、人頭税制度で、15歳から49歳までの女性に対し貢納布を
課し、各村に苧糸績家、ご用布家を指定し、各家庭に苧麻畑10坪、
藍畑6坪の栽培を義務づけた。

貢納布
①定納布・・・氏族女子に課した。白上布、白中布、白下上布
②ご用布・・・平民女子に課した。赤縞上布、紺縞上布、白縮布
③御内原布・・①②の中から王府用として特選した貢納布

赤縞上布
最高級の赤縞上布は紅露(クール)と呼ばれる蔓性の植物から
染料を抽出して、化学染料では出すことのできない鮮やかな
赤茶系の独特の美しい色を出し、クール染とも呼ばれている。

この赤縞上布のクールで染めた後、海水で晒す様子は民謡
「布晒節」に歌われている。

その後、高機の考案、クールによる摺込捺染技術の開発により
産業化が図られ、尚家経営の丸一商店による織物買上げもあり
増産されるようになると、他府県の機械織による安価な類似品
が出回るようになり、八重山赤縞上布の生産は下火となって
いった。

近年、県による無形文化財指定、通産省による伝統工芸指定される
など再評価されているが、後継者の養成が大きな課題となっている。

ペーチン