島唄ブログdiary

復元された人頭税時代の「八重山上布」

今回人間国宝に認定された、新垣幸子さん

7月20日 大朗報が飛んできました。

各局のニュースなどでご存知かと思いますが・・・

八重山から初めて人間国宝が誕生しました。

八重山毎日新聞 https://www.y-mainichi.co.jp/news/40718

文化庁の文化審議会(島谷弘幸会長)は19日、「八重山上布」を初めて重要無形文化財に指定し、

その保持者に新垣幸子さん(78)=石垣市登野城=を認定する、と文部科学大臣に答申した。

八重山上布の芸術上の価値と、新垣さんの高度な技法などが認められた。

石垣市出身者が重要無形文化財いわゆる「人間国宝」になるのは「紅型」の玉那覇有公さん(87)=

読谷村=に続き2人目だが、在住者では初めて。近く官報で告示される。

 同審議会は八重山上布を「芸術上特に価値が高く、工芸史上特に重要な地位を占め、

地方的特色が顕著な染織技法である」、新垣さんを「八重山上布の製作技法を高度に正しく体得し、

精通している」ことが評価された・・

〈八重山毎日新聞〉略

さて、この度人間国宝に認定された新垣幸子(78)さんは、

ある書物で・・・すばらしいコメントを残しております。

紹介しましょう。

人頭税当時に作られた八重山上布を、見つめてきた新垣さんは言う

「あんな圧政の中で、こんな美しいモノが織れたのはどういうことだろう」

それは直に織物に接する人の実感だ「技術はもちろんだけれども、職人としての誇りが

なくてはできないと、そして敬虔な気持ちで仕事をしたのではないかと思う」と言う。

糸づくりから始まる染織りである。織る集中力や、精神力、根気など、発揮する力は相当

なものが想像される。「ただ、上からの強制で 『苦しい苦しい』だけで仕事をしたのはないわけで

はないんですね」それではできない。

「ものづくりとしての誇りをもっていた気がします」遣されている上布を見るとき

新垣さんは「私には、復元といっても、織る技術はもちろん、糸の問題など、

大きな許織りがあります」昔の人が美しく作れた背景には「織り手の織る事への敬虔な思いと、

そこからくる暮らしと有機的に結びついていると思う」

最後に現代に触れて

「昔に比べて技術はだんだん崩れまた技術は再現できないモノもあるけれど

誇りや敬虔な姿勢といった気持の部分では、私たちが引き継がなくてはと思う」

ーーーーーーーーーーーー以下略

八重山の歌の世界にも精通する新垣さんのコメントです。

「八重山上布」とは何ぞや?

沖縄大百科辞典より(解説は故新城剛)

苧麻(ちょま)を原料とした八重山の伝統的な麻織物

王府時代に御用布(貢布)として納められた上布には、

上布、白中布、赤縞上布(あかしま)、紺縞上布、御内原(ウウチバラ)布などがあります。

精巧な技術によって織られた。

現在織られている上布は紅露(クール)染めの茶絣(ちゃかすり)

赤縞上布に代表される、経(たて)緯(よこ)糸とも手紡ぎの苧麻

を緯糸にラミー(機械紡ぎの苧麻)を経糸に使った混成の上布とが

ある。染料には八重山の山野に自生する紅露(ソメモノイモ)の

濃縮エキスを摺り込み、捺染(なつせん)の技法で絣糸を染める。

また最近は一部の若い織手によって藍染料による手結い技法を用いた王府時代の

紺縞上布の復元がなされている。手織りによる八重山上布は、清楚な白地に

藍や茶褐色の絣模様が調和し、清涼感あふれる夏着として最適である。

八重山上布織りの期限は明かでないが、「李朝実録」によると

、1477年(尚真1)に与那国に漂着した朝鮮人・金非衣(きんぴい)らの

見聞談では苧麻で織物が織られていたとあり、当時すでに

苧布があったことがわかる。

1637年(尚豊17)に首里王府は宮古・八重山に人頭税制を実施

婦女子(15~50歳)に上布の貢納を義務つけた。

納められた御用布は王府を通して薩摩へ貢納され、薩摩上布の銘柄で市場に出され、

広く知られた。1903年(明治36)まで続いた。

人頭税制の過酷な歴史の中で精錬された上布は、19年(大正8年)

ごろにもっとも盛んになり、八重山の経済を支える産業として栄えたが、

昭和に入って不振が続き衰徴した。戦後、石垣英富・池城安祐・与那国

清介らの尽力で再興され、その伝統技術は78年4月無形文化財

として県の指定を受けている。

喜舎場永珣「八重山歴史」(1954)、田中俊雄・田中玲子「沖縄織物の研究」(1976) 

参照。

今回の新垣幸子さんの認定に大変よろこんでおります。

心から おめでとうございます。