先月31日、八重瀬町立具志頭民俗資料館で開催していた「八重山移民 出稼ぎ」
特別企画の報告資料展を観てきました。
八重瀬町からも八重山に沢山の開拓移民が送り込まれた事は正直
知りませんでした。開拓地八重山ではマラリア風土病・自然災害に覆われながらも艱難辛苦の
八重山開拓の厳しかった歴史の史実
開拓者達の子孫が親や祖父達の話を聞き報告書としてのこされ
今回の貴重な「八重山移民」のご苦労が展示されたのである。
八重瀬町民が配置された石垣島の開拓地
琉球王国時代、王府は農民を石垣島や西表島に強制的に
送り込み、開拓村を形成させた。明治時代以降、
強制移住はなくなったが、「肥沃」な土地を求めて沖縄本島、
宮古島、県外、台湾等から開拓移民が次々と八重山開拓に挑んだ、
しかしその多くは成果をあげられず、撤退した。
沖縄戦後、人口増加と広大な米軍基地建設による
可耕地(かこうち)の大幅な減少の為、
米軍や琉球政府は人口調整と食糧確保の対象として、
南米移民や八重山開拓移民を政策としてかかげた。
日本政府も協力し、西表調査団等を派遣している。
また若者を養成し将来八重山の各開拓地のリーダーとする目的で、
八重山開拓青年隊も結成させた。しかし、
石垣島と西表島の開拓予定地は、ことごとく戦争マラリアの
恐怖のさめやらぬ場所であった。その上、
開拓者を開拓地に投入した後、道路を建設し、
マラリア撲滅を並行して進めると言うモノであった。
参考・引用(崎原恒新=八重山開拓/豊見城市史/崎原恒新=国内出稼ぎと県内移住/概要・浦添市移民史・本編)
ーー企画資料を提供していただいた民俗資料館のスタッフの皆さん。
ありがとうございました。