島唄ブログdiary

沖縄の恩人・鎌倉芳太郎碑を尋ねる

鎌倉芳太郎の顕彰碑に弟子の田中くんが案内してくれました。

出身地に威風堂々と
建っている鎌倉芳太郎の顕彰碑

生家にも案内してくれました。

隣棟にあるミュージアムは来客を持てなす「コーヒー家」と資料やグッズが

楽しめるそうだが、残念ながら、金曜日は休館日、しかし

「沖縄から来ました」生家を管理しているオバチャン説明すると

「どうぞどうぞ」と丁寧に生家内を案内して貰いました。

生家

鎌倉資料館とコーヒー館

休館日だったが、沖縄から来ましたと伝えると丁寧に案内して貰いました。

ご主人が沖縄から来ているのでコーヒー飲んでと、案内されましたが。次のスケジュールがあるから、次回に来るからと伝えました。

広いリビングルーム

流石、沖縄の紅型の
「シーさー」のれん、

 

〈プチ鎌倉芳太郎足跡〉

琉球文化研究の第一人者として型絵染で人間国宝になった

香川県三木町出身の鎌倉芳太郎は22歳の時に東京から

沖縄にその一歩を踏み入れたのはいまから約90年前の1921年でした。

その男・鎌倉芳太郎はひと目で沖縄が好きになりました。

沖縄の文化、芸術、民俗、建築など様々な分野に興味を抱き

教師として働くかたわら、いろいろな場所へ出かけてはそれらを

克明に調べ、スケッチしてノートに記録しました。

足かけ七年かけて調査したそのノートは、全部で81冊、

沖縄研究の第一級の資料として「鎌倉ノート」と呼ばれて

千枚以上の写真とともに後に国の重要文化財に指定されました。

沖縄を愛した男は首里城を救って「沖縄の恩人」と呼ばれ、

その研究で残した資料が、再び首里城を救うことになりました。

また、若き日の琉球文化の研究が、紅型の作家となる

道を選ばせ琉球紅型の復興にも役立った。

その功績を讃え県立芸大の正門向いに1月31日建立されました。

今年1月に建立された
鎌倉芳太郎の顕彰碑

沖縄をこよなく愛した鎌倉は82年、集大成の大著「沖縄文化の遺宝」を発刊し翌年亡くなった。

再び火災に見舞われた首里城に、泉下の鎌倉も悲しむとともに復活の日を待ち望んでいることだろう。

ーーー鎌倉と同郷の愚生の弟子田中くんが案内してくれた御陰で深く鎌倉芳太郎のことを知ることができました。

ありがとうございました!!

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